相撲節会

平成22年10月10日 平城遷都1300年祭が開かれている奈良市の平城宮跡で奈良時代に国家儀礼として行われた 天覧相撲「相撲節会(すまいのせちえ)7月7日に国家儀礼として行われていた」が再現された。奈良県相撲連盟のアマチュア力士ら10人が登場し微妙な判定は天皇の裁断を仰ぐ「天判(てんぱん)」が行われることや、引き分けを「持ち」と呼ぶなどの解説を交え、5番にわたって取組を実演した。

そこで現在の相撲の原形である相撲節会について深く考察してみようと思います

そもそも相撲の始まりは垂仁天皇7年(360年頃)7月7日 「当麻邑に当麻蹶速(たぎまのくえはや)と いう者が天下に自分より強い者はいないだろう。もしいたら生死を問わず 力比べをしたい」と言っておりますと奏上する者が居り、そこで天皇が群臣に他に力自慢の者はいないかと訊ねられたところ、出雲に野見宿禰(のみのすくね)というものがおりますという答えが有り両者が呼び出されて試合をすることになりました。
これが一般に「相撲」の起源とされています。

天平6年(734年)7月7日 45代天皇・聖武天皇が野見宿禰と当麻蹴速の試合の故事に因み七夕の日、全国の相撲人を集め宮中紫宸殿の庭で相撲を取らせた『続日本紀』・これが天覧相撲の最初の記録となり この事が相撲節会(すまいのせちえ)の儀式の始まりとされています。そして宮中行事の一つとなります。
「聖武天皇・
誕生 701年 崩御 756年6月4日

相撲 歴史 相撲節会「相撲節会」


相撲節会は七夕の節会と融合して7月7日に行われました。平安時代には相撲司と呼ばれる親王の臨時の役職が設置されるようになりました。
天長元年7月7日(824年8月5日)に平城上皇が崩御したのを機に節会が7月16日に期日変更されました。その後次第に衰微したが後年に光孝天皇が相撲を奨励するなど再興の動きも見られた。平安時代中期以後は相撲召合と呼ばれて規模が縮小されるようになり、近衛府が事実上の主催をするようになりました。
保元3年(1158年)と承安4年7月27日(1174年8月26日)に散発的に行われた。

この様に見ますと相撲節会は平城上皇が崩御した後 開催日が不規則になっていった様に見受けられます

承安4年(1174年)7月27日 高倉天皇の相撲天覧が有りました。これが最後の節会相撲となりました。

治承4年(1180年)4月〜寛治1年(1185年)3月 源氏・平家の合戦が起こり約400年に及んだ節会相撲の儀式が途絶えました。

しかし熊本の吉田司家がこの節会相撲に造詣が深く今の相撲への伝承の役を担った。特に横綱の免許付与に永年携わってきた。
吉田司家は志賀清林を祖とする志賀氏の断絶後、志賀氏に代々受け継がれてきた故実・伝書などを受け継いだ初代、吉田家次(吉田豊後守 ぶんごのかみ)から始まり、相撲の宗家として代々「追風」の号を名乗った。元来、京都二条家に奉公し節会相撲の行事官として務めていた。その後、二条家の許しを受け、細川綱利に招聘され熊本藩に仕え、武家奉公をした。以来、熊本県熊本市に住む。相撲に関する全権は、後鳥羽天皇より委ねられたという。 吉田司家の故実によると、726年(神亀3年)の禁じ手制定以前について「相撲の古法は突く殴る蹴るの三手なり」とある。 江戸時代には、勧進相撲が取り行われるようになり、19代吉田追風は横綱制度を考案し1789年(寛政元年)11月、谷風・小野川に横綱を免許した。 1791年(寛政3年)および1794年(寛政6年)に、11代将軍徳川家斉の上覧相撲を奉仕し、武家相撲の作法および土俵の登場・礼式などすべての相撲の様式を定めた。以来江戸時代を通じて、横綱免許はすべて吉田司家によって授与されていた。 1986年5月、司家内部の不祥事により、25世吉田追風と春日野理事長(当時)との会談で、吉田家の横綱授与の儀式を全面的に協会へと委ね、当面は協会との関係を中断する旨を双方了解した。司家は明治神宮での横綱推挙式に臨席し横綱及び故実書一巻を授与するだけとなった。


この様な変遷を持って天平6年(734年)7月7日聖武天皇が始めた相撲節会が
現在の相撲へと引き継がれています。


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