相撲の起源 |武家の時代 |明治維新以降|日米開戦以降現在迄
起源
相撲の起源は非常に古く、古墳時代の土偶にもその様子が描写されています。
「相撲節会」
延暦12年(793年)この頃より天覧相撲が毎年恒例の催しとなりました。
天長10年(833年)5月 仁明天皇が相撲節は単に娯楽、遊戯の為だけでなく武力の鍛錬が中心目的であると勅命を下す。
承安4年(1174年)7月27日 高倉天皇の相撲天覧が有りました。これが最後の節会相撲となりました。
安元2年(1176年)12月伊豆柏峠で河津三郎と俣野五郎の相撲が行われた。『曽我物語』
治承4年(1180年)4月〜寛治1年(1185年)3月 源氏・平家の合戦が起こり約400年に及んだ節会相撲の儀式が途絶えました。
(武家の時代)
文治元年(1189年)4月3日源頼朝が鎌倉八幡宮にて将軍上覧相撲を行う。『吾妻鏡』
将軍家上覧相撲の始まり。
正嘉元年(1257年)10月15日 宗尊親王、北条時頼の上覧相撲が行われた。吾妻鏡)
室町時代(1392年)〜(1573年)足利将軍家もしばしば相撲見物を行っている。足利時代末頃職業相撲が発生した。
元亀元年(1570年)3月3日織田信長が常楽寺にて相撲上覧を行った。『信長公記』
天正6年(1578年)2月29日織田信長の上覧相撲が安土城にて行われた。
信長亡き後も豊臣秀吉、秀次の上覧相撲が行われた。
文禄5年(1596年)関西の職業相撲の団体約10名が九州・筑後に巡業。
江戸時代に入ると 京都、江戸、大阪に於いて興行としての勧進相撲が盛んに行われる様になりました。
本来 勧進相撲とは神社仏閣の再建や修繕費用が必要な時、相撲の興行を行い興行収益の一部をそれに充てる事を目的にした。当時、各地に相撲を生業(なりわい)とする いわゆる職業的な力士集団が生まれており、寄進をする勧進相撲に参加した。
次に興行目的の相撲も勧進相撲と呼ぶ様になったのは幕府寺社奉行の許可を必要としたという
いわば特殊な事情が有った故であります。
興行を行うと太鼓櫓(やぐら)を立て早朝から太鼓を鳴らす、近隣に力士と言う大男が闊歩し人の出入りが激しくなる、その為 どうぞ御免下さいと言う意味の奉行の許可を必要とした。
現在でも大相撲の巡業の主催者を勧進元と呼んでおります。
許可が下りた事を祝う事を
御免祝いと言い太鼓櫓を立て蒙御免の立て札(御免札)を立てる事が出来ます。(御免札)は興行が許可された証です。
御免札
現在でもこの慣習が引き継がれ大相撲の本場所前には所管の関係各所の許可を得た後 必ずこの御免祝いを行い所轄の自治体関係、消防、警察関係者、保健所、報道関係者を招いて場所開催の日程を報告します。
基本的に御免祝いが済んではじめて 太鼓櫓の設営、桟敷の構築、土俵造り等 興行準備作業に入れます、場所直前に大きく相撲字で書かれた御免札を立て初日を迎えます
この様な点からも相撲という競技の特殊性と歴史の重みが感じられます。
正保2年(1645年)6月京都・糺森にて公許勧進相撲が行われる。『古今相撲大全』
貞享元年(1684年)富岡八幡宮で江戸の勧進相撲が行われた、江戸勧進相撲発祥の神社といわれている。
後世 明治33年、第12代横綱陣幕久五郎を発起人に歴代横綱を顕彰する横綱力士碑が建立されました。
新横綱誕生時には新横綱の土俵入りが奉納されます。維新の志士・伊藤博文、山県有朋、大隈重信といった賛同者の名も見えます。
元禄15年1702年)4月大阪・堀江にて寄進をしない興行目的の勧進相撲が公許される。この勧進相撲がその後大きく発展し現代の大相撲の礎となったと言えるでしょう。
享保年間(1716〜1735年)この頃から大阪及び京都番付が見られる様になりました。
宝暦7年(1757年)江戸相撲において縦型番付が最初に発行されました。これをもって江戸相撲の独立と考えられます。
京都相撲、大阪相撲は横型番付でした。
宝暦11年(1761年)10月 蔵前八幡社で開かれた場所の番付の勧進相撲の文字が勧進大相撲となった。
寛政元年(1789年)11月には小野川喜三郎と谷風梶乃助に吉田司家より
横綱土俵入りの免許がおり これが歴史上実質的に現在の横綱制度の始まりとされています。
小野川喜三郎(画像クリックで拡大)谷風梶乃助(画像クリックで拡大)
寛政3年(1791年)6月 江戸城吹上で11代将軍徳川家斉の上覧相撲が有りました。
谷風梶之助と小野川喜三郎の上覧相撲が有り、このとき谷風が将軍家より弓を賜り、これを手に土俵上で弓を受け「敬い奉げて四方に振り回し」舞ってみせたのが現在の弓取式の始まりとされる。
文化2年(1805年)春場所中 ”め組の喧嘩”の事件が有りました。
天保4年(1833年)10月 江戸・本所回向院境内が定場所となりました。
嘉永2年(1849年)4月 江戸城吹上で将軍家慶の上覧相撲。
嘉永6年(1853年)6月3日 ペリーの率いる黒船が浦賀来航。
嘉永7年2月 歴史的な戦いがペリー提督の前で行われた。
日米和親条約が締結された嘉永7年(1854年)2月26日。大関・小柳常吉、鏡岩以下38力士が、力技披露のために幕府から横浜に招集された。土俵入りやけいこ相撲、米俵運びなどを見せたところ、米国側の随行レスラーとボクサーが「チャンピオンに挑戦したい」。指名された小柳と米国人ボクサーの間でこんなやりとりがあった。「投げ殺してもかまわぬか」「かまわん。だがな、殴り殺すことも許されるのか」。殺伐とした中で、小柳と身長208センチの幕内力士、白真弓が出陣して相撲技で粉砕した。
面目をつぶされた米国側は、レスラーのウイリアムスとブライアン、ボクサーのキャノンが3人で同時に小柳に襲いかかった。小柳は、キャノンのパンチをかわして小手投げを打って踏みつけ、タックルにきたブライアンを小脇に抱え込み、ウイリアムスを足払いで倒した後にベルトをつかんでつるし上げてしまった。
一瞬の圧勝劇だった。
禁門の変で敗れた長州では藩論が尊王攘夷より公武合体論が主流を占めてきた。
元治元年(1864年)12月 これに危機感を感じた高杉晋作は功山寺で再度挙兵する、
この時呼応したのは当初
伊藤俊輔(博文)の率いる力士隊約30人と、石川小五郎の遊撃隊約50人だけであった。
後に奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年3月には公武合体派等の保守派を排斥して高杉晋作、伊藤博文等の
尊王攘夷派が勝利し、藩の実権を握る。その後徳川幕府による
第2次長州征伐(1866年慶応2年6月)に対して備えをし、これに勝利し第2次長州征伐を制止した。
この戦いには坂本竜馬の亀山社中も高杉に加勢し勝利に貢献している。
これを機に、長州藩は倒幕に向けて一気に動き出した。
坂本竜馬仲介の 薩長同盟、大政奉還、鳥羽伏見の戦いを経て慶応4年4月11日 江戸城無血開城、
江戸時代が終焉。 力士を抱えていた大名が崩壊し力士達の環境も変わって行く事になる。
明治維新時では多くの力士が勤皇の志士となって働いています。
画像クリックで拡大(中央)高杉晋作の右に力士隊を率いた伊藤俊輔
明治4年 維新政府により裸体禁止令、断髪令、相撲禁止の議論が出たが
御自身自らも相撲をとられた明治天皇及び伊藤博文(伊藤俊輔)達の力により難を逃れる事になる
(明治維新以降)
慶応4年(明治元年・1868年)4月17日 大阪・坐摩神社にて 明治天皇が京都力士を天覧されました。昭和 | 場所名 | 優勝力士名 | 地位 所属部屋 | 成績 |
16年 | 春場所 | 双葉山 定次 | 横綱 立浪 | 14勝1敗 |
夏場所 | 羽黒山 政司 | 大関 立浪 | 14勝1敗 |
17年 | 春場所 | 双葉山 定次 | 横綱 双葉山 | 14勝1敗 |
夏場所 | 双葉山 定次 | 横綱 双葉山 | 13勝2敗 |
18年 | 春場所 | 双葉山 定次 | 横綱 双葉山 | 15勝0敗 |
夏場所 | 双葉山 定次 | 横綱 双葉山 | 15勝0敗 |
19年 | 春場所 | 佐賀ノ花 勝巳 | 小結 二所ノ関 | 13勝2敗 |
夏場所 | 羽黒山 政司 | 横綱 立浪 | 10勝0敗 |
秋場所 | 前田山 英五郎 | 大関 高砂 | 9勝1敗 |
20年 | 夏場所 | 備州山 大八郎 | 前頭1 伊勢ヶ濱 | 7勝0敗 |