大阪相撲の変遷
相撲の歴史を考察する上で見逃せない要素です

江戸時代 
大阪相撲は寛文年間:1661〜1673年に大阪・恵比須島で興行が有ったが喧嘩沙汰が有り取りやめとなって以降永く禁止された。神社仏閣への寄進を目的とした勧進相撲が唯一許可されているのみであった。

寄進をしない勧進相撲興行が解禁されたのは
元禄15年:1702年 大阪 堀江の阿弥陀池 和光寺境内(西区南堀江2−8南堀江公園) での興行でこれが職業的興行相撲の最初となる。

正徳4年:1714年から享保までは大阪や堺の浪人や相撲取りが申し合わせて興行を願い出て勧進相撲を催し相撲取りも素人も勧進元(主催者)になった。
享保4年 小川龍乃助という相撲取りが勧進元となって興行を行った後は相撲を家業としない浪人や素人には許可されなくなった。

一方で大阪相撲は相撲興行が公許される事になったので大阪近郊の紀州、讃岐、泉州などの力士が集まり人気を得た。大阪商人の後援を得て職業的な勧進相撲が盛んに行われた結果 三都(大阪、京都、江戸)の中で最も隆盛を極め、全国に於ける相撲の中心地は大阪におかれ
毎年各地の相撲団は競って大阪へ上った。

寛政元年:1789年 大阪難波新地にて雲州松江侯の御抱え力士・雷電為右衛門がこの興行に参加し好成績をだした。
寛政2年11月、雷電は江戸の回向院での興行にいきなり関脇から付け出され出場し初優勝する。
谷風のの好敵手 小野川も大阪相撲に出場している。
11代横綱・不知火 光右衛門も不知火 諾右衛門の弟子となり、大阪相撲での修行を経て江戸の境川部屋門下となり、1863年3月場所で吉田司家から横綱免許を授与された。

東西の力士の交流はかなり自由であり、明治の初代梅ヶ谷藤太郎
も大阪相撲の湊部屋から初土俵を踏んで大関まで進み、
慶応3年江戸相撲に移り前相撲から出発しついに天下無敵とうたわれた15代横綱に昇りつめた。
明治時代 
大阪角力協会が出来たが東西の力士の交流は相変わらず自由であった。
19代横綱 常陸山谷右衛門は若い頃東京相撲を抜け出し、名古屋 大阪と流れ歩いて修行を重ね東京に復帰した。常陸山を継いで出羽の海親方になった両国梶乃助も四股名(いちじく)で大阪相撲の出身であります.

大阪相撲の中村部屋が生んだ若島権四郎の場合は天下に梅常陸とうたわれた一方の雄2代目梅ヶ谷藤太郎が東西合併相撲において若島権四郎には勝てず大阪相撲の力士でいながら東京大阪両角力協会の推薦で第21代横綱に昇った。
その他 東京ー大阪の相撲協会をまたにかけて脱走、復帰を繰り返した力士及び呼び出しは数多くある。
大阪相撲の花形大関・放駒長吉が東京に脱走し相生松五郎となる。
後年 勲六等単光旭日賞を受賞した太鼓の名人・呼び出し太郎は東京で破門され大阪で草鞋を脱ぐが大阪になじみ切れず又東京へ帰る。
大正時代 
大阪相撲の拠点は今の浪速区・新世界へ移った。
相撲史上 関ヶ原の合戦ともいえる東西合併相撲開催がおこなわれたのがこの時であります。
大正8年 弟1次世界大戦で大儲けした安堂寺橋の鉄鋼の商人達が東京に負けていられないとばかり
1株¥200という当時の大金を出し合って株式会社大阪国技館を立ち上げ総工費35万で 通天閣の南 霞町に収容人員5000人の大阪国技館を開館した。この開館記念興行には東京角力協会から横綱・栃木山、大錦、大関・九州山、大の里、清瀬川、両国、大潮らが参加した。
一方 大阪方は横綱・大錦大五郎、小染川、朝日山、陣幕らの顔ぶれで10日間連続大入り満員 優勝は東京の大の里がものにした。この10日間興行は盛大の内に終わり、以降 大阪角力協会は春、夏の2場所をこのドーム型三階建の大阪国技館で行った。大正9年1月の春場所初日横綱・大錦が幕尻の大寒に敗れるという大きな番狂わせが有ったりと連日盛況が続いた。暫く平穏だった大阪相撲に波風が立ったのは大正12年の事。
東京で力士会の面々が待遇改善を協会に要求し春場所をボイコットした。三河島の日本電解工場にて籠城したいわゆる三河島事件である。
事件は大阪にも飛び火した。5月には大関・上州山を先鋒とする幕内、十両の全関取が養老金などの力士待遇改善を求めて竜神遊郭の御茶屋:東京庵に籠城した竜神事件が起こった。その結末は犠牲者を出さずに和解した東京側に対し大阪側は解決までに20日も掛かり泥沼状態化し力士会の結束が乱れ大半の幕内力士が廃業に追い込まれた。千田川部屋では師匠を務める千田川友次郎(大関・小染川)以下全力士が協会を去り
幕内格の行司 木村喜三郎が部屋を継いだ。、
朝日山部屋では師匠が離反した弟子の帰参を許さず大関・二瀬川、関脇・大泉、朝千鳥、荒木山、山の音、岩の松、友の海らが廃業していった。
この事件を機に大阪相撲は苦境に立ち衰退していった。

大正14年4月 東京赤坂・東宮御所において摂政宮殿下(昭和天皇)の誕生日祝賀の為の台覧相撲が行われ、その際の御下賜金をもとに摂政宮賜杯(優勝賜杯)が作成された。
大正14年7月 何かと張り合っていた東京・大阪両大角力協会は解散して大日本相撲協会を結成する為の調印がなされた。
東京側が大阪側に双方一緒に摂政宮賜杯を争奪する事を大義とすると持ちかけた為 大阪方の面目が保たれ交渉が順調に進んだ。
12月28日 東京大角力協会より申請されていた財団法人大日本相撲協会が文部大臣より認可された
かくして大正15年をもって大阪相撲は財団法人大日本相撲協会に実質的に吸収された。
当時の大阪相撲の内実は朝日山、三保ヶ関、時津風、小野川、中村、高田川といった
大部屋を残すのみで他は親方名跡を残すのみであった。
かくして永い歴史を持つ大阪相撲も大正と共に姿を消した。
しかしながら相撲の歴史上 大阪相撲の存在意義はかなり大きい。
大阪相撲の横綱は若島、大木戸、大錦、宮城山であった。



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