大相撲 京都相撲変遷

京都相撲は宮廷行事の相撲節会から始まり
寺社仏閣の修繕の費用を集め寄進をする為の勧進相撲、
寄進をしない興行目的の大相撲へと発展しました
大相撲の歴史を考察する上で見逃せない要素です

平安時代(宮中行事相撲節会)
 
延暦12年(793年)7月7日桓武天皇の相撲節会の天覧相撲が有り平安朝の宮廷における天覧相撲が毎年恒例となった。

天長10年
(833年)5月 仁明天皇は相撲節会は「単に娯楽、遊戯の為ではなく武力鍛錬が真の目的である」との勅命を下し全国の相撲人を集めて競わせた。

承安4年(1174年)7月27日 高倉天皇の相撲節会天覧が有りましたが
その後 源平合戦が起こり400年の歴史を残して相撲節会が廃絶しました。

江戸時代(勧進相撲)

正保2年(1645年)6月 京都・糺の森(ただすのもり)にて公許勧進大相撲が行われた。
これが京都初の勧進大相撲となる。

元禄12年(1699年)5月 京都岡崎天王社において勧進大相撲興行が行われた
これは最古の古番付となり三役の名称がある。

勧進相撲とは神社仏閣の再建や修繕費用が必要な時、相撲の興行を行い興行収益の一部をそれに充てる事を目的にした。当時、各地に相撲を生業(なりわい)とする いわゆる職業的な力士集団が生まれており、
勧進大相撲に参加した。


寄進をしない勧進相撲興行が解禁されたのは
元禄15年(1702年)4月 大阪 堀江の阿弥陀池 和光寺境内での興行でこれが職業的興行相撲(勧進大相撲)の最初となる。

元禄12年(1699年)5月 京都岡崎天王神社で開催された勧進大相撲が京都での最初の勧進大相撲興行との説が有る、以後 江戸時代を通じて京都での勧進大相撲興行が行われる様になった。

宝歴7年(1757年)10月 京都番付けが見られる。
江戸の縦番付けと違い京都は横番付けでありました。

宝歴11年(1764年)10月 この時から勧進相撲が勧進大相撲と番付けに表記される。

文久3年 1863年6月3日_(旧暦)に大坂北新地で壬生浪士組(後の新選組)と死傷事件を起こしたのは大坂相撲で、中頭の熊川熊次郎(肥後出身)が死亡し多数の負傷者を出たが、和解し。手打ちとして壬生浪士組と京都での相撲興行が有り、壬生浪士組と親しい京都相撲、大坂相撲が共同で行われた

慶応4年
(明治元年・1868年)4月17日 大阪・坐摩神社にて明治天皇が京都力士を天覧されました。

明治時代
(勧進大相撲)

明治時代4年3月 京都において東京、大阪、京都の三都合併大相撲が開催された。
(四季勧進大相撲)江戸で2回、大坂、京都で各1回の年4回興行を行った


明治の末には殆どの力士が江戸に吸収されていった。

京都相撲で活躍した力士


大碇紋太郎  明治2年(1869)愛知県生まれ
(明治17年)、山分萬吉の山分部屋に入門その後は京都の大関として活躍、(明治32年)4月には五条家から横綱免許を授与された。

華の峰、兜潟,他



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