大相撲強豪列伝

寛政2年初土俵の雷電為右衛門かから
昭和13年1月横綱昇進の双葉山定次迄の強豪達を見てみます


強豪 雷電為右衛門

らいでん・ためえもん 明和4(1767)年1月、長野県出身。寛政2(1790)年11月初土俵、同7年3月大関昇進、文化8(1811)年2月引退。197センチ、172キロ。

大相撲 雷電為右衛門
現役21年間で喫した黒星は、わずかに10。優勝力士の表彰制度が制定されたのは明治42年で、それ以前は参考記録だが、優勝に相当する最優秀成績を記録した場所数は27を数える。年間2場所時代でこの数字。現在の年6場所に換算すると優勝81回になる。史上最多優勝32回の大鵬も脱帽の快記録だ。

 初土俵はなんと、関脇付け出し。しかもいきなり優勝してしまった。初土俵の3年後から4連覇、2場所の不出場を挟んで直後に7連覇。最晩年も7連覇し、そのまま全休して引退した。

 飛び抜けた成績も、史上ただ一人だけに課せられたハンディを背負ってのものだった。「張り手、てっぽう、かんぬき」の3技を個人的に禁止された−との証言が、生地に建つ「力士雷電之碑」に佐久間象山が刻した碑文にある。相手に負傷者が続出したための特別措置だったという。

 母が村の仁王像に「大きな男の子をお授けください」と祈って生まれたのが、仁王をしのぐ怪物だった。少年時代に碓氷峠で荷馬を引いていたときに加賀百万石・前田侯の行列に遭遇し、馬を荷物ごと担いで行列を通したことから怪物伝説が始まった。197センチ、172キロの肉体は、肋骨(ろっこつ)のすき間のない“一枚あばら”と呼ばれる特異体質。日本酒2斗(36リットル)を飲んでも平気だった。酒好きゆえに「負けた相撲はすべて二日酔いによる取りこぼしだった」ともいわれる。

 生涯勝率・962は史上最高。44歳の引退まで大関に足かけ17年在位したが、横綱にはなれなかった。講談によると、遺恨のあった四海波を土俵上で投げ殺したことで横綱問題が消滅したとされるが、当時は大関が最高位で横綱制度が未成熟だったためというのが真相だろう。横綱にこそならなかったが、相撲史研究家は声をそろえる。「史上最強は雷電だ」と−。

 無敵  谷風梶之助

たにかぜ・かじのすけ 
寛延3(1750)年8月8日、
宮城県出身。明和6(1769)年4月初土俵、
寛政元(1789)年11月横綱昇進、
同6年11月最終場所。189センチ
、160キロ。

大相撲 谷風梶之助
大相撲の最多連勝記録は“昭和の大横綱”双葉山の69。では史上2位は? 正解は、谷風の63連勝だ。ちなみに双葉山は安芸ノ海に連勝を止められると、そのまま3連敗した。が、こちら谷風は、小野川に連勝を止められた翌日から再び勝ち続け、43連勝。小野川戦の黒星がなければ107連勝になるところだった。

 驚くのはまだ早い。当時は江戸のほかに、大阪と京都にも大相撲集団があった。63連勝は江戸本場所のみの数字。大阪、京都の本場所を加えると、なんと98連勝を記録しているのだ。双葉山の69連勝を上回ること29。朝青龍の最多連勝が35であることを考えると、その無敵ぶりが分かる。

 寛政元(1789)年にライバルの小野川と同時に横綱になり、史上初めて横綱土俵入りを披露、空前の黄金時代を現出した。名声を耳にした11代将軍家斉が江戸城内で上覧相撲を催したほど。優勝21回。相撲ぶりは典型的な横綱相撲で、常に受けて立ち、相手に十分に力を出させてから料理した。当時の文献に「力量万人にすぐれ、相撲の達人にて、腰低く寄る足いたって早く」と記されている。前回の本欄に登場した“怪物”雷電をマンツーマンで鍛えて強くしたのは谷風で、本場所での対戦はなかったが、けいこ場では谷風に分があったという。

 「土俵上でワシを倒すのは無理。横になっているのを見たければ、風邪をひいている時に来い」と豪語した谷風の強さに掛けて、天明年間に流行した悪性の風邪を人々は「タニカゼ」と呼んで恐れた。ところが皮肉にも谷風自身、大流行した風邪のために寛政7(1795)年1月9日に現役横綱のまま44歳で急死した。ちなみに死亡前の3年間は無敗。その死は江戸っ子を悲しませた

巨人 釈迦ケ嶽 雲右衛門

しゃかがたけ・くもえもん 寛延2(1749)年、島根県出身。明和7(1770)年11月初土俵、安永3(1774)年4月最終場所。227センチ、180キロ。


大相撲 釈迦ケ嶽


身長227センチ。238年前の江戸大相撲に突然現れた怪物の名は、釈迦ケ嶽。松江藩の抱え。 巨人力士にしては珍しいと言って良い程に強かった。 深川の富岡八幡宮に立つ、13回忌に弟の稲妻が建立した等身大碑の他に、巨人力士身長碑・手形碑・足形碑からも大きさが伺い知れる。道中で履く草鞋の長さは約38cm、手形は長さ25.8cm 幅13cmだったと伝わる。 摂州の住吉神社に参詣した帰りに茶店に立ち寄ったが、茶代を払うのに 2階の窓へ支払ったと伝わる。 普段から顔色が悪く、目は鳩の様だったと伝わる。長躯で何事につけ不自由するので性格も塞ぎ勝ちであり、芝居等の人混みを嫌った。 安永 2年に後桜町天皇から召されて関白殿上人らの居並ぶ中で拝謁して土俵入りを披露し、褒美として天皇の冠に附ける緒 2本が与えられた。それは聞いた主君の出羽守から召されて、 2本の緒を目にした出羽守は驚き喜び、側近に申し付けて小さな神棚を設けて緒を祀った。彼が没した時に神棚が激しい音を立てて揺れたので出羽守は気味悪く思って出雲大社に奉納した。 命日は釈迦の命日でもあり、奇妙な符合と評判に上った。現役最長身の琴欧洲より25センチも高く、プロレス界伝説の大巨人アンドレ・ザ・ジャイアント(公称223センチ)よりひとまわり大きい超巨人だ。 手形、足形、着物、等身大画像などが残されている。東京・深川の富岡八幡宮境内には実弟の力士、真鶴が建立した等身大の石柱が今もある。記録に残る成長ぶりがすごい。14歳で196センチ。雲州藩の抱え力士、雷電為五郎に16歳で弟子入りした時が215センチ、21歳で江戸相撲で初土俵を踏んだ時が222センチ、その後5センチ伸びた。ちなみに使用した皮草履(ぞうり)のサイズは43センチ−。江戸本場所の番付に登場すること足かけ5年で通算6場所。初土俵から大関の地位を占めた。出場は4場所で、そのうちなんと3場所で優勝相当の成績を残したのだから驚かされる。得意技は空前絶後の荒技。長さ26センチ×幅14センチの巨大な手のひらで相手の首根っこをつかむと、そのままつるし上げて土俵外にほうり投げた。前回の本欄に登場した“最強横綱”谷風の若手時代に3戦し、1勝1敗1分けの五分の星を残したのだから、強さは本物だった。

 豆腐屋の2階の雨戸をたたき、応答がないので閉店と勘違いした。茶店で休息して、立ち去る時に代金を屋根のひさしに並べた。女性と×××したら、へそに口紅がついた。いずれも規格外の巨体ゆえの逸話だ。

 「この怪物はどこまで強くなるのか」と相手方力士を恐れさせたが、26歳で現役のまま突然、死んでしまった。死因は腸閉塞(へいそく)と伝わるが、「あまりの強さゆえに毒殺された」とのうわさもある。

日米スポーツ交流の始祖 小柳常吉

こやなぎ・つねきち 
文化14(1817)年8月、千葉県出身。
天保6(1835)年初土俵、
嘉永5(1852)年大関昇進、
安政3(1856)年1月引退。170センチ、
155キロ。

大相撲 小柳常吉
日米スポーツ交流の始祖は、力士とレスラー、ボクサーによる異種格闘技戦だった。主役となったのが小柳。天保から嘉永にかけて優勝5回、優勝同点1回を記録した当時の第一人者だ。

 歴史的な戦いは、黒船で来日したペリー提督の前で行われた。日米和親条約が締結された嘉永7(1854)年の2月26日。大関小柳、鏡岩以下38力士が、力技披露のために幕府から横浜に招集された時のことだ。

 土俵入りやけいこ相撲、米俵運びなどを見せたところ、米国側の随行レスラーとボクサーが「チャンピオンに挑戦したい」。指名された小柳と米国人ボクサーの間でこんなやりとりがあった。「投げ殺してもかまわぬか」「かまわん。だがな、殴り殺すことも許されるのか」。殺伐とした中で、小柳と身長208センチの幕内力士、白真弓が出陣して相撲技で粉砕した。

 面目をつぶされた米国側は、レスラーのウイリアムスとブライアン、ボクサーのキャノンが3人で同時に小柳に襲いかかった。小柳は、キャノンのパンチをかわして小手投げを打って踏みつけ、タックルにきたブライアンを小脇に抱え込み、ウイリアムスを足払いで倒した後にベルトをつかんでつるし上げてしまった。一瞬の圧勝劇だった。

 現役力士の異種格闘技戦としては、幕末の関脇両国が十両時代に黒人レスラーをKOしたり、明治初頭の関脇鞆ノ平が十両時代に米国人ボクサーを倒したり、横綱初代若乃花や輪島の師匠の大ノ海が引退直前の十両時代に渡米しプロレスラー30人に全勝した例などがある。しかし、江戸(東京)大相撲の第一人者の実戦は小柳だけ。現役最強力士の強さを立証した事例として特筆される。

大相撲
中興の祖
初代
梅ケ谷藤太郎


うめがたに・とうたろう 
弘化2(1845)年2月9日、
福岡県出身。明治4(1871)年3月初土俵、
17年5月横綱昇進、18年5月引退。
176センチ、124キロ。
大相撲 梅ケ谷藤太郎

現代の記録男、朝青龍はすでに16敗(不戦敗2を含む)している。梅ケ谷は入幕から引退までの12年間の通算で黒星が6つしかない。朝青龍は平成16年秋場所に6敗した。朝青龍の1場所と梅ケ谷の生涯の敗戦数が同じ…という信じられない現実。明治9年から17年にかけて、若島戦の1敗を挟んで58連勝と35連勝を記録している。幕内勝率.951は谷風の.949を上回る歴代横綱ナンバーワンだ。

右上手を浅く引き、左ハズで寄る堅実な相撲ぶり。基本に忠実で、就寝中も腕を脇から離さず、足の親指に力を入れて歩くため下駄(げた)にくぼみができた。赤ん坊の時にくくられていた石臼を引きずって這い、5歳時には菓子より酒を好んだという怪童は、のちに重さ100キロの酒だるを持ち上げて100回も上下させる剛力を備えた。技術に腕力が加われば、鬼に金棒だ。

 土俵外でも強かった。明治9年に福岡で発生した不平士族の反乱「秋月の乱」に巡業中の梅ケ谷一行が遭遇、抜刀する武士に丸太などで応戦し鎮圧に一役買った。

 梅ケ谷の全盛期に序二段力士、荒竹が渡米して日本人初のプロレスラーになり、ソラキチ・マツダのリングネームでウィリアム・マルドゥーン(米国)やエドウィン・ビビー(英国)ら世界の強豪と死闘を演じた。その活躍を報じた当時の新聞は、こう記している。「梅ケ谷でも洋行したなら、外国の力士は皆、投げ殺されましょう」−。

 明治17年に約700年ぶりに実現した天覧相撲では、伊藤博文に贈られた化粧まわしで横綱土俵入りを披露した。引退後は養子の2代目梅ケ谷を横綱に育て、明治42年には東洋一といわれた旧両国国技館の建設を成し遂げた。「大相撲中興の祖」と呼ばれる偉人だ。

傍若無人  大達羽左衛門

おおだて・うざえもん 
嘉永6(1853)年12月15日、
山形県出身。明治6(1873)年12月初土俵、
19年1月大関昇進、28年6月引退。
176センチ、125キロ

大相撲 大達羽左衛門

「眼中敵なし、傍若無人」と評された力士がいた。大達だ。仕切りの際に、中腰のまま拳を相手の目の前に突き出して挑発。立ってきた相手には、首を両手でつかんで後方へほうり投げる徳利投げの荒技を炸裂(さくれつ)させた。投げる前に「ええか、ええか」と声をかけたというのだから恐れ入る。

 相次いで3つの部屋に所属した。理由は、師匠を殴るなどして2度破門されたから。朝青龍も真っ青の傍若無人さの根底にあったのは、けた違いの腕力だった。筋肉が張りすぎて腕が曲がらず、雨の日に傘をさしてもずぶぬれだったという。巡業相撲で幕力士6人に同時に飛びかからせ、全員ひねり倒したこともある。「虎を張り倒してみたい」とうそぶいたほどの強さだった。

 明治17年3月10日、東京・芝延遼館で催された天覧相撲で、前回の本欄に登場した“無敵横綱”梅ケ谷と史上最高の死闘を繰り広げた。明治天皇の指名で実現した戦いは、左四つで2度の水入りを挟んで40分間に及んだ。天皇の許しが出て引き分けの裁定が下ったとき、大達の指が梅ケ谷のまわしから離れず、呼び出しが1本ずつ引き離したという力相撲だった。

 5月場所で梅ケ谷と再戦した大達は、水入りの末に突き出しで勝った。その場所から20年5月までの7場所が全盛期で、4場所で優勝、1場所で優勝同点。それでも最高位は大関だった。今なら間違いなく横綱だが…。

 傍若無人が力士生命を縮めた。飲めと言われれば日本酒1斗(18リットル)をがぶ飲みし、食えと言われればガラスも食う無鉄砲がたたって黄疸(おうだん)と脚気(かっけ)を患い、2年間全休し平幕に陥落。往年の強さを取り戻すことなく、28年6月場所に初日から5連敗して寂しく引退した。

角聖

 

常陸山谷右衛門

常陸山谷右衛門(ひたちやま・たにえもん) 明治7(1874)年1月19日、茨城県出身。25年6月初土俵、37年1月横綱昇進、大正3年(1914)年5月引退。175センチ、146キロ。


大相撲 常陸山谷右衛門

「角聖」と尊称される史上唯一の大力士だ。常陸山は、土俵の内でも外でも他を圧した。

 相手の声で立ち、左腕を抱えて土俵際で片足で残すと、そのまま振り飛ばすか突き放すという横綱相撲。「どんな相手もおれより弱い」という自信のなせるわざだった。のちの無敵横綱太刀山の豪腕突っ張りを胸で受け、ひねり倒した。強豪大関国見山は差し手を返しただけで吹っ飛んだ。入幕から引退までの16年間で15敗。ライバルの2代目梅ケ谷と明治37年1月に横綱に同時昇進し「梅常陸時代」を築いた。

 土俵の外でも偉大だった。女性を“千人斬り”したといわれ、認知した子供の数は55人にのぼったという。明治40年8月から8カ月間、現役横綱として欧米を訪問し、米国でルーズベルト大統領と会見してホワイトハウスで土俵入り。昭和60年のニューヨーク公演の際にホワイトハウスでの土俵入りを企画しながら、レーガン大統領の夫人ナンシーさんに断られた千代の富士とは大違いだ。

 筑波山では、8人がかりで運ばれた重さ300キロの巨岩を軽々と抱え上げてみせた。米国では数人の男女に腹を押させて腹筋で吹っ飛ばし、世界一の怪力を誇ったアレキサンダー(スウェーデン)と力比べをして引き分けた。けいこ場で幕内力士を担ぎ上げたこともあった。

 「御大」−。人々はこう呼んで慕った。相撲界で初めての組織的後援会には政財界、軍部などの名士が競って名を連ねた。引退後は3横綱4大関など多くの名力士を育成。力士としても親方としても、かわらぬ英雄だった。大正11年6月19日に敗血症のために死去した際、相撲協会は初の「協会葬」でその功績をたたえた。

強豪 太刀山峰右衛門

たちやま・みねえもん 明治10(1877)年8月15日、富山県出身。44年6月横綱昇進、大正(1918)7年1月引退。優勝9回。185センチ、150キロ。
大相撲 太刀山峰右衛門
この強さは、にわかには信じられまい。その取り口を評して、川柳に「太刀山は、四十五日で今日も勝ち」と詠まれた。太刀山の得意技は突っ張り。相手をひと突き半で突き出すことを常とした。ひと突き半=1カ月半=45日。先の川柳は、太刀山の強さを表したものだ。

 土俵の直径が現在より60センチ狭い13尺(3・96メートル)だったとはいえ、すごすぎる。小常陸などは十数メートルも突き飛ばされ、着地の際に国技館の床をぶち破って休場に追い込まれた。突きをかいくぐっても、小手投げ、仏壇返し(呼び戻し)で土俵にたたきつける。重さ約500キロの砲弾を持ち歩く怪力を誇り、当時の生物図鑑に「ゴリラは太刀山のように強力な動物」なる記述が見られるほど超人的な強さだった。

 とんでもない逸話がある。明治42年夏場所8日目から45年春場所7日目まで43連勝を記録。西ノ海に喫した黒星を挟んで、大正5年夏場所7日目まで56連勝した。西ノ海戦について、引退後に「あの相撲はわざと負けた」と告白。これが本当なら100連勝していたことになる。

 明治42年に優勝力士の表彰制度が導入されてから初めてとなる5連覇を達成した翌場所は全休し、休場明けに2連覇。休まない限り優勝が途絶えないありさまだった。


 けいこ土俵の中央に直径1メートルほどの小円を描いて「おれがここから出たら負けでいい」。他力士との力量差は歴然としていた。名声は世界にとどろき、世界最強のレスラーといわれたジョージ・ハッケンシュミット(ロシア)との異種格闘技戦も内定した。第一次世界大戦のために実現しなかったが、中国・上海巡業でインド人レスラー集団を手玉に取った実力をもってすれば、勝利はかたかっただろう。「20世紀最強の人類」に推す声もある。

豪腕 栃木山守也

栃木山守也(とちぎやま・もりや)

明治25(1892)年2月5日、栃木県出身。大正7(1918)年5月横綱昇進、14年5月引退。優勝9回。173センチ、104キロ。

大相撲 栃木山守也

身長173センチ、体重104キロ。栃木山は史上最小兵の横綱だったが、低い重心から攻め上げる“おっつけ”と“はず押し”で、相手につけ入るすきを与えなかった。

 5連覇を含む優勝9回を記録しているが、その引き際が衝撃的だった。大正13年春から14年春場所まで3連覇してそのまま引退。本人は「衰えてからやめるのは本意ではない」と電撃引退の理由を語ったが、その真相については「髪が薄くなり、まげを結えなくなったから」というのが定説となっている。

 頭髪以外に衰えがなかったことは、おきて破りの快挙で証明された。引退から6年後の昭和6年に開催された大日本相撲選士権でのこと。現役力士に混ざって出場した元栃木山の春日野親方は、玉錦、能代潟、天竜、沖ツ海、鏡岩ら現役トップを連破して優勝。はげ頭のおじさんが現役力士に未曾有の大恥をかかせてしまった。

 米国を旅した際、プロボクシング世界ヘビー級王者のジーン・タニーに挑発された。タニーが太い鉄棒を力で曲げてテーブルに置くと、それを手にした栃木山は黙って元のように伸ばし、「こうしておけば使えるのに」。“拳聖”ジャック・デンプシーを2度倒した拳の王者も、栃木山の怪力に恐れおののいた。出羽海部屋の後輩、天竜は証言する。「手首をつかまれただけで、肩までしびれ上がった」と。小兵を補う腕力と相撲の型が、怪力士を生んだのだ。

乱暴  玉錦三右衛門

たまにしき・さんえもん 明治36(1903)年12月15日、高知県出身。大正8(1919)年1月初土俵、昭和8(1933)年1月横綱昇進、13年5月最終場所。173センチ、139キロ。

大相撲 玉錦三右衛門
土佐犬のような男だった。玉錦は闘魂で土俵の王者となった。高知出身。13歳で入門したが、体重63・75キロという当時の新弟子検査規定に達せず、番付に乗るまで3年かかった。恵まれない素質を熱心なけいこでカバー。ナマ傷が絶えず、つけられたあだ名が「ボロ錦」。

 けいことともに熱心だったのが、ケンカ。刃物を手にしたヤクザとも平気で渡り合い、部屋の近所でもめ事があると「犯人は玉錦だろう」と真っ先に疑われたほど。もうひとつのあだ名は「ケンカ玉」。番付が不満で相撲協会の実力者、出羽海親方(元小結両国)を日本刀で襲ったこともあった。

 乱暴狼藉がアダとなり、大関で昭和5年10月場所から3場所連続で優勝しても、横綱になれなかった。25年に設置された横綱審議委員会の横綱昇進内規は「2場所連続優勝か、それに準ずる成績」。今後は大関で3連覇して横綱になれない力士など永久に出るまい。

 8年1月にようやく横綱に昇進し、玉錦時代が到来した。が、王座は短かった。鋭い出足を武器に10年1月から3連覇を続け、同5年から27連勝を記録していたが、その連勝を止めたのが、自ら胸を出して強くした双葉山だった。双葉山はそのまま69まで連勝を続け、覇者は劇的に交代した。

 その後は打倒双葉山に闘志を燃やしたが、志半ばでたおれた。巡業中に虫垂炎を発症したが、「おれが盲腸になるはずがない」と病院行きを拒否して弟子に腹をもませた。盲腸が破れて膿(うみ)が腹腔にあふれ、緊急手術したが手遅れだった。13年12月4日、死去。出世の原動力となった強情が命取りになった。現役横綱の死は、谷風以来143年ぶりの悲劇。薄れゆく意識の中で発した最期の言葉は「おい相撲だ。まわしを持ってこい」だったという。

 

69連勝
双葉山 定次

ふたばやま・さだじ 明治45年2月9日、大分県出身。昭和13年1月横綱昇進、20年11月引退。優勝12回。179センチ、134キロ。

大相撲 双葉山 定次

双葉山定次
双葉の前に双葉なく、双葉の後に双葉なし。ご存じ、69連勝の大横綱だ。大相撲の史上最多連勝記録である69連勝中に5連覇を達成し、その間に番付は関脇から横綱になった。昭和14年春場所4日目に安芸ノ海に連勝を止められたときには、新聞の号外が街に飛び交った。

 身体に障害があった。右目を失明し、右手小指の先が欠けていた。幼少時に吹き矢で目を射られ、碇(いかり)の巻き上げ機に指を切断された。ハンディキャップは心眼でカバー。生涯1度も“待った”をせず、1回目の仕切りで突っかけてきた龍王山も即座に組み止め、上手投げでたたきつけた。

 『木鶏(もっけい)』の境地を目指した。木彫りの鶏のように不動の心を持てば、無敵だ。敗れたときには「いまだ木鶏たりえず」「信念の歯車が狂った」などの言葉を残して、滝に打たれて修行し直した。アスリートの枠を超えた求道者だった。

 神仏に傾倒するがゆえに、引退後には新興宗教・璽宇(じう)教への入信騒動で世間を騒がせた。昭和22年、天変地異が起きると称して金品を受け取る詐欺行為で教団が摘発されたとき、洗脳されていた双葉山は警官隊約30人と乱闘し生け捕りとなった。洗脳が解け、のちに日本相撲協会理事長となって部屋別総当たり制を導入するなどの改革を実行した。

 右四つの型は古今最高といわれ、観客は双葉山が左上手を取った瞬間、“勝負あった”と帰り支度を始めた。人気力士の大邱山などは「どうせ負けるのだから、けがをしたら損」と、わざと負けるありさま。その心技体は他を圧倒した。




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